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福岡地方裁判所久留米支部 昭和44年(ワ)187号 判決

原告 甲野二郎

〈ほか三名〉

以上四名訴訟代理人弁護士 山口親男

被告(亡乙山十郎訴訟承継人) 乙山十四郎

〈ほか二名〉

以上三名訴訟代理人弁護士 木村重夫

主文

被告らの被相続人亡乙山十郎の原告らに対する福岡法務局所属公証人香山静郎作成第五八二九号不倫の情交関係解消契約公正証書に基く強制執行はこれを許さない。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

一  申立

(原告ら)

主文と同旨の判決を求める。

(被告ら)

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決を求める。

二  主張

(原告の請求原因)

1  被告らの被相続人亡乙山十郎の原告らに対する債務名義として主文第一項掲記の公正証書があり、その執行認諾文書の付された給付条項は、原告甲野二郎の債務としては、被告乙山花子の父である乙山十郎に対し同原告は、被告花子との間の従前の情交関係を解消することを確約し、同被告からのいかなる誘いがあってもこれに応じないことを誓い、将来両者間に情交関係を生じたときは、その原因の如何、事由のいかんをとわず、十郎に対し一、〇〇〇万円を支払う旨の条件付金銭債務に関する条項及びその履行遅滞の場合の遅延損害金に関する条項であり、その他の原告三名の債務としては、右原告二郎の乙山十郎に対する債務の連帯保証人としての履行義務に関する条項である。

2  しかしこれらの条項は、原告らが真実そのような債務を負担する意思がないのに後記のような事情のもとに承諾させられてしまったもので、相手方である十郎は原告らが債務負担の意思のないことを当時知っていたか又は知り得べき事情にあったから、民法九三条によって無効である。そうでないとしても同条項成立の事情は後記のとおりであり、公序良俗に反する契約として民法九〇条により無効である。

すなわち、原告二郎は砂利・砂の運搬・販売を業とし、かねてその納入先である乙山十郎方に出入りするうち、昭和四二年一〇月頃十郎の娘である被告花子と親しくなり、肉体関係を結ぶようになってしまった。

原告二郎は当時四二才で当然妻子もあったが、被告花子は当時三一才で未婚の身であり、極めて積極的で、原告二郎は実父や妻子からのいましめもあって被告花子と何度か別れようとはしたが、果たさないまゝ関係を続けていた。

ところが昭和四四年五月一五日頃十郎は、訴外時里正義を代理人として原告二郎に対し、その妻である原告夏子と別れて被告花子を本妻にせよなどと要求し、十郎方に出向いてこれに応答すべきことを申し入れた。そこで原告二郎は友人大石清に仲介を依頼し、十郎方に出向いて交渉して貰ったところ、十郎から大石を通じて慰藉料二〇〇万円を支払えという要求が伝えられた。これに対し同原告は二〇万円を支払う意思のあることを応答したが、十郎の受け入れるところとはならなかった。

同月二〇日頃に至り大石は、先方は公正証書を作って解決をしようという意向だから、原告二郎と実父である原告甲野太郎、長男である原告甲野一郎、妻である甲野春子とが全員実印と印鑑証明書を持参し公証役場まで出席してくれ、といって来た。原告ら四名は、そうすればどのようなことになるのかわけはわからなかったが、言われるまゝに実印と印鑑証明書を持って大石に伴われて公証役場に出向いた。公証役場では原告らが控室に待たされているうちに、被告花子の兄である被告乙山十四郎と十郎側の仲介人時里正義、原告側の仲介人大石清が公証人と話合って文案を作り、そのあと原告ら及び十郎らも呼入れられ公証人から公正証書の内容を一回読み聞かせられ、異議の有無を問われたが、急なことで考えもまとまらぬうちに乙山十四郎、時里正義、大石清が次々に異議ありませんと答えてしまったので、原告らは反対しようと思いながらついその意見を申し述べる機会を失ってしまった。その結果、原告らに異議はないものとして前記のような内容の公正証書が作られたのである。

しかし一、〇〇〇万円といえば原告ら四名の財産全部を投げ出しても足りない金額であること、被告花子から執拗な脅しを交えた呼出しが従前属々原告二郎のもとにあってそれが情交関係を断ち切れぬ原因になっていたこと、そのような呼出しがあったとき原告二郎がこれを拒否することは今後とも著しく困難であること、従ってそのような事情にある原告二郎として一度でも被告花子と情交関係を結べば原告ら全員が連帯して一、〇〇〇万円を支払わなければならぬようになる約束を本気でする筈がないということは、従前のいきさつからして、十郎が当然諒知していたか又は知り得べき事情にあったといわなければならない。

そればかりでなく、右のような条項自体あまりにも不合理不釣合で、原告二郎ばかりの責任とはいえない出来事の生起を条件として原告四名からその全財産を剥奪し一家を路頭に迷わせることをその内容とするものにほかならないから、公序良俗に反するというべきである。

3  よって原告らは、十郎の共同相続人である被告三名を相手方として、前掲公正証書の執行力の排除を求める。

(被告らの認否)

請求原因1の事実はこれを認めるが、同2の事実はすべて争う。本件公正証書は当事者の自由な意思、特に原告らの積極的な意思に基いて作成されたもので、その有効であることは論をまたない。

三 証拠≪省略≫

理由

一  被告らの原告らに対する債務名義として、被告らの被相続人亡乙山十郎を債権者とする原告ら主張の内容の公正証書が作成されていることは当事者間に争いがない。

二  ≪証拠省略≫を考え合わせると、

原告甲野二郎は砂利・砂等の販売業を営み、コンクリート管等の製造業者であった乙山十郎方に永年商品を納入するうち、同人の娘である被告乙山花子と親しくなり、昭和四二年五月頃から情交関係を生じ、翌四三年七月から八月にかけて両名とも家を出て名古屋方面に出奔同棲するということもあり、その間双方の家族が心配して種々忠告したり叱ったりして見たが(特に花子の家族は花子を熊本市内の叔母の家にかくすようなことまでしてみたが)、両名とも家族の嘆きをよそに互に連絡をとり合っては絶間なく逢瀬を重ねていたこと、

被告花子は原告二郎との関係を生じた昭和四二年五月当時、未婚で親もとに同居していたとはいえ、すでに年令は三一才に達し、高校卒業の学歴もあり独立して社会生活を営むに足りる知能と健康とを有していたもので、当時四二才であった原告二郎には妻子のあることを熟知しながら、同原告の誘惑に負けて同原告と前記のような関係を生じ、のちには自身の側から積極的に呼出しをかけるなどしてその関係を継続して来たこと、

本件公正証書は、右のような原告二郎と被告花子の行状に全く途方に暮れた双方の家族や親族友人たちが相談の上、被告花子は原告二郎さえはっきり手を切る決心をつければそれに従うであろうとの考えのもとに同被告の意思とは無関係に、原告二郎をして被告花子の父十郎に対し同被告と手を切ることを誓約させ、且つ違背した場合には違約罰として一、〇〇〇万円の制裁金を課するものとし、その支払義務については原告二郎の父である原告太郎、妻である原告夏子、長男である原告一郎が連帯保証をするということにして誓約を実効あらしめようとし、関係者がわざわざ公証役場に出向いて全員同意の上作成の嘱託をしたものであること、

従って原告二郎としては、被告花子の意思と無関係に右のような誓約をさせられ且つ違約罰の制裁を定められたことに釈然としないものはあったが、一同の前では無条件にこれを受諾する旨の意思表示をしたものであり、相手方である乙山十郎ないし連帯保証人である他の原告三名としては、原告二郎が真実条項のとおり罰則をも甘受の上被告花子と手を切る固い決心をしてくれたものと信じていたこと、

を肯定することができる。≪証拠判断省略≫

従って、心裡留保を理由として本件公正証書の罰則の部分が無効であるとする原告らの主張は理由がないというべきである。

三  しかしながら、同公正証書は原告二郎と被告花子との間の情交関係を「不倫」であるとしてその解消に関し条項を定めているけれども、それが法律上「不倫」として非難さるべきであるのは原告二郎の妻である原告夏子に対する不貞行為だからであって、同公正証書上債権者とされている乙山十郎に対する関係で特に「不倫」として非難さるべき関係にはない。すなわち、その被害者は債権者とされている十郎ではなくして、却ってその連帯保証債務者とされている原告夏子にほかならない。

もとより、十郎が被告花子の親たるものとして、同被告の原告夏子に対する不法行為を構成するような原告二郎との情交関係を解消させたいとねがうことは人として自然のことであり、そのための方法として、原告二郎に花子と手を切ってくれと頼みその約束をさせることも当然許さるべきことであろう。しかしそれは、被告花子に対する親としての影響力の行使すなわち忠告、叱責その他の処置をとった上で、それを効果あらしめるための方法としてはじめて是認さるべき徳義上の問題であり、十郎に法律上の権利としてそのような要求をする権利があるわけでもなければ、原告二郎がそれを承諾したからといって両者間に法律上の取引関係が生ずるわけでもない。

従って十郎が原告二郎に花子との情交関係の解消を誓約させそのことを公正証書の条項に盛り込んでこれに法律上の契約であるかのような形式を与えてみても、該条項の本体が原告二郎の良心に向けられた道徳上の義務であり同原告の自由意思に基く履行のみを期待し得るにすぎないという本質は変更される理由がなく、かゝる約定については人を殺さないとか盗みをしないというような道徳上の義務と同様、これを強制的に履行させる法律上の方法はないものというべきである。

それゆえ、これを強制する目的をもってその違反に関し制裁金を課すべきことを承諾させたところで、それはとりもなおさず公の秩序の許さない私刑の設定にほかならぬこととなる。しかも本件においては、その違背が花子の側にどのように責任のある場合であっても原告二郎に対する制裁の原因となるものとし、その制裁金を一、〇〇〇万円という巨額なものとしているほかに、その被害者たるべき原告夏子をして被害者でも何でもない十郎に右制裁金の連帯支払義務を負わせるという本末顛倒をも敢えてしているものであって、かゝる私的制裁の約定が公序良俗に反することは明らかというべきである。

それゆえ、本件公正証書中の制裁金に関する約定は当然無効であって、その関係条項の執行力の排除を求める原告らの請求は理由があるものといわなければならない。

四  よってこれを正当として認容することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 蓑田速夫)

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